出口はどこか 入る前に確認を
ここでは生を全うされた方には、生きている方と同じように正面玄関からおかえり頂くようだ
今回ご紹介するグッときた名文は、青山ゆみこ著「人生最後のご馳走」(幻冬舎、2015年)から引用しました(2回目)。
著者の青山ゆみこさんは神戸在住の編集者・ライターです。1998年に27歳でアパレル業界から出版業界に転職し、雑誌の副編集長を経て、2006年からはフリーランスの編集者・ライターとして単行本の編集や雑誌のインタビューを中心として活動されています。著書に自分自身の赤裸々な告白を元に、「小文字の困りごと」から障害者問題や性暴力、児童虐待などさまざまな「大文字の困りごと」を見つけ出し、世の中の事象を自分ごととして考えたエッセー「ほんのちょっと当事者」(ミシマ社)があります。
「人生最後のご馳走」ではホスピス病棟の「リクエスト食」にまつわるエピソードを患者と病院スタッフに取材し、患者の語る人生の振り返りと患者を支える病院スタッフの心構えを丁寧に紹介しています。リクエスト食は毎週土曜日の夕食に出されるイベント食のようなもので、病棟専属の管理栄養士が入院している患者から今食べたいものとそれにまつわるエピーソードを聞き取り、調理師によって食べやすくしつつ、見た目や味を楽しめるように工夫された特別なご馳走のことです。「人生最後のご馳走」は食べたいと言う「希望」を持った患者と、支えたいと言う「意志」を持った医師や看護師をはじめとした病院スタッフとの相互作用がないと起こらない奇跡のエピソードも紹介されていますが、積極的治療を行わないホスピスにおいて医療スタッフに何ができるのかを克明に伝える医療ジャーナリズム的な一冊とも言えます。
淀川キリスト教病院ホスピス・こどもホスピス病院の副院長である池永医師は、ホスピス医になれば「死とはなんだろうという」疑問の答えが見つかるのではと思い、高校時代からホスピス医になることを意識していました。研修医として1990年に淀川キリスト教病院に入職して内科医を経て、以来ホスピス医として患者さんのケアに深く関わっています。このホスピスで出会う他の医師と同様に、池永医師は、一般病棟の医師にありがちな高圧的な気配とは異なる空気感を持っています。彼は毎日病室を覗いては患者に声をかけて、雑談から個別のケアに結ぶつけるヒントを見つけるということを続けていますが、それは医師として薬を使って痛みを和らげてあげることができても、それ以上のことはできないからだと言います。
ここでは生を全うされた方には、生きている方と同じように正面玄関からおかえり頂くようだ
これは池永医師へのインタビューの中で、池永医師から紹介された患者への対応の一つとして書かれた文章です。この対応はホスピス専門病院だからこそできるケアかもしれませんが、ホスピスの職員は患者に対して最後のケアに至るまで「あなたは大切な存在である」という思いを込めています。そして患者とホスピス職員はお互いに影響を受け合いながら、最後まで患者がどう生きるかを毎日選択し続けています。だから「正面玄関から帰る」という発想はホスピス職員だけで考えられたらのではなく、職員にとって患者の存在が大きかったからこそ生み出された発想だったのではないでしょうか。そんな両者による相互作用にグッときました。
一般病棟による医療は以前よりも患者参加型医療が徐々に浸透し、治療方針の意思決定が病院主体ではなくなってきつつあるものの、まだまだ「死なないため」に治療することを前提としています。だから「死者」の出口は入り口とは逆側のひっそりとした場所に設けられているのかもしれません。当然、宗教観の違いや文化的背景が最も大きな原因なので、なかなかこのような取り組みをしようと思うと大変な障害があることは間違いありません。
ホスピスは患者に死ぬための場所ではなく最後まで「生きるため」の場所を提供しています。最後まで生きた人だからこそ、生きている人と同じ場所から最後に堂々と出ることができるのでしょう。「終わりがあるから最後まで生きられる」という考え方で思い出されるのが仏教用語である「生死」です。「生死」とは仏教において生と死を分けて考えないということを表す言葉ですが、物事が始まると必ず終わりがあると思うからこそ1日の始まりと終わりを大切にし、人との出会いを大切に思い、一瞬一瞬をも大切にできるのだという意味が込められています。どう人生を終えるのかということを淀川キリスト教病院のホスピスでは患者と職員が毎日思いながら、1日1日を大切に過ごしているのです。「終わりを思う」ことに宗教の垣根はないのかもしれません。