ゆっくりと美しく ひと手間をかける
このダブルコンソメには、魔法瓶の蓋を皿がわりにするような無粋なことも、気の滅入る殺風景な病室も似合わない
今回ご紹介するグッときた名文は、青山ゆみこ著「人生最後のご馳走」(幻冬舎、2015年)から引用しました。
著者の青山ゆみこさんは神戸在住の編集者・ライターです。1998年に27歳でアパレル業界から出版業界に転職し、雑誌「Meets Regional」の副編集長を経て、2006年からはフリーランスの編集者・ライターとして単行本の編集や雑誌のインタビューを中心として活動されています。著書にミシマ社のホームページ上のウェブマガジンである「みんなのミシマガジン」から書籍化した「ほんのちょっと当事者」(ミシマ社)があります。
「人生最後のご馳走」ではホスピス病棟の「リクエスト食」にまつわるエピソードを患者と病院スタッフに取材し、患者の語る人生の振り返りとそれを支える病院スタッフの心構えを丁寧に紹介しています。舞台である淀川キリスト教病院ホスピス・こどもホスピス病院では、成人病棟の平均在院日数は約3週間で、末期がんで余命2〜3ヶ月以内の方が入院の対象となっています。リクエスト食は毎週土曜日の夕食に出されるイベント食のようなもので、病棟専属の管理栄養士が入院している患者から今食べたいものとそれにまつわるエピーソードを聞き取り、調理師によって食べやすくしつつ、見た目や味を楽しめるように工夫された特別なご馳走のことです。
著者は、昔雑誌編集者時代にお世話になった先輩が末期ガンで一般病院に入院していると聞き、見舞いに行きます。先に見舞いに行った知人から、先輩が「アラスカ」という洋食店のコンソメスープを飲みたがっているという話を聞ききますが、それは先輩が50年ほど前に学校を卒業して初めて務めた洋食店のコンソメスープのことでした。著者は見舞いに行く前にその洋食店を訪れて事情を説明し、スープを魔法瓶に入れてもらうことができました。
このダブルコンソメには、魔法瓶の蓋を皿代わりにするような無粋なことも、気の滅入る殺風景な病室も似合わないのだと
今回の名文は、先輩が著者の持ってきたコンソメスープを見たときに目を輝かせながら「アラスカのダブルコンソメやな、今すぐに飲みたい」と言った後に続く文章です。そう言って先輩は病室から来客スペースに移動し、琥珀色の澄み切ったダブルコンソメを魔法瓶から白い皿に移してから、目と鼻と舌でスープをゆっくりと味いました。今すぐに美味しそうなものを摂取したいという気持ちを抑え、欲望に対してスローモーションである先輩の振る舞いは上品で美しく映ります。この上品さに僕はグッときました。先輩は「うまいなぁ」と一口飲むとその後はこのコンソメスープがいかに手間が掛かっているかとか、若いときに厨房で怒られた話などを昔の名調子で話します。
著者は以前 Meets Regional 誌の編集者であるとお伝えしましたが、今回の名言主の先輩とは実は Meets Regional 誌時代の先輩にあたる方ではないでしょうか。その Meets Regional は1989年に京阪神エルマガジン社が毎月発行する主に京阪神地区に住む大人向けの情報誌として創刊された雑誌で現在も発行されています。ディープな紙面作りで「街を知る人の雑誌」「街に住む人の雑誌」としてこれまで魅力を発揮してきました。僕の印象では2000年頃までは書籍・芸術・建築といった他の文化的要素にスポットを当てた特集が多かったため、大人な切り口の情報収集源として大変お世話になった記憶がありますが、僕があまり手に取らなくなった2000年以降の特集を見てみると関西の食文化・最新のグルメ情報をかなり掘り下げて発信している特集が多いようです。もしこの先輩が Meets Regional 誌の関係者であるならば、このスープのディープな美味しさが Meets Regional 誌を知る関西人には容易に納得して伝わることでしょう。
実は先輩はこの時既に抗がん剤と痛み止めの副作用でとても口から食べられる状態ではなかったこと、そして見舞いに来た客に「ダブルコンソメを飲んだのだ」と嬉しそうに話されていたことを著者は亡くなられた後から聞きます。著者は先輩のテーブルの上に「ダブルコンソメ」を運んだとき、ガン患者という漠然とした顔のない存在から先輩が自分を取り戻すきっかけになったのではと振り返ります。この体験がきっかけとなり「リクエスト食」による人生の振り返りを聞き取ることが始まります。
ホスピスは「死ぬための場所」ではなく「最後まで生きるための場所」なのだ。
ある患者は、この病院の食事を取るようになってからホスピスに来る前よりも元気になったといい、またある患者はリクエスト食の日は化粧をして楽しみにご馳走がやってくるのを待っているといいます。著者は、食べたいものを自分で選ぶということ、自分の力で食べるということ、そして食によってコミュニケーションが生じることを末期ガン患者へのインタビューを通して伝えています。そしてケアする人たちが悩みながら、時には失敗しながら、当事者の虚しさや辛さに対して理解しようとし続ける姿を紹介しています。
食事にゆっくりと上品に向き合える時間を作ることは、その料理に関わる全ての人の人生を豊かにすることである、これが人生最後を迎えた人から我々に向けて送られたメッセージではないでしょうか。「効率」「時短」という欲望とは反対側の世界に、本当の豊かさがあるということを言っているようです。