Keep on Scrappin' 〜名言のスクラップ帳〜

僕のスクラップブック から、グッとくる名言を脱線話を交えてお届けします。

場外で マイペースに脱皮する毒蛇

少しだけだが、新日本プロレスのリングが見慣れた光景から動いた。 

 

 今回のグッときた名文は「別冊宝島99 超プロレス主義!格闘王たちのバトルロイヤル」(JICC出版局、1989年)に納められたコラム「褐色の咆哮ージョージ高野ストーリ」から引用しました。

 

 この本は、1989年に出版されたサブカルチャー誌「宝島」のムック形式の別冊ですが、「別冊宝島」にはこの本の他にも「1126 プロレス名言・暴言大全集」、「2528 プロレス暗黒回廊」などのプロレス関連本を多く出版しています。ちなみにJICC出版局は1993年に社名を「宝島社」と変更し、その後も90年代はサブカルチャースタイルを貫いてきましたが、現在ではコンビニで見かけるような付録付きムックを多く出版し、CM等でお茶の間にも馴染みがある会社になっています。本書はアントニオ猪木が事業の失敗(または失態)に懲りずに突然政界に進出した裏側や、猪木が仕掛けた様々な事件(海賊男事件、たけしプロレス軍団事件など)、佐山聡前田日明らにより創設されたUWFの真相といった1980年代当時のプロレスとその周辺の事件について書かれたコラムが集り、読み応えのある内容になっています。

 

 このコラムの筆者は作家、ライターの板橋雅弘さんで、著書に児童書「パパはわるものチャンピオン」(岩崎書店、2014年)があり、2018年には新日本プロレス棚橋弘至主演で映画化されました。またイタバシマサヒロ名義で「BOYS BE…」(KCマガジン連載、1991〜2012年)の原作を手掛けました。著者は中央大学在学中、えのきどいちろう杉森昌武らと「中大パンチ」というサブカルミニコミ誌を創刊しておバカ記事で絶賛と非難をあびつつも、その質の高さはプロのサブカル誌である「宝島」の編集者の目にも留まるほどのでした。その後ライター事務所「シュワッチ」(えのきどいちろう杉森昌武ナンシー関などが所属)を立ち上げ、ライターとして活躍されていた時代に書かれたと思われるコラムの一つが今回ご紹介する「褐色の咆哮ージョージ高野ストーリ」です。

 

 1986年7月、トリプルタッグトーナメントに猪木、坂口征二組の3人めのメンバーとして海外遠征を終え凱旋帰国した「態で」ジョージ高野が参加しました。しかし熱心なファンは一人のマスクマンがひっそりと姿を消したことを知っていました。そのマスクマンの正体こそジョージだったのです。

 黒人米兵と日本人母のハーフとして生まれ、敬虔なクリスチャンとして育てられたジョージは、ダメ元で受けた新日本プロレスの入門テストに合格しました。同期に前田日明平田淳二スーパーストロングマシン)がいて、二人に比べると体格的にパッとしないジョージでしたが、ハーフの持つ甘いマスクと長い脚のおかげで新日フロントに目をつけられて、同期レスラーに先駆けてデビューすることになりました。その後は女性ファンを獲得することだけは成功しますが、パッとしない試合が続き、将来メインイベンターになるには欠けているものが多意と判断され、お決まりの海外遠征に出されました。その後1983年12月、ザ・コブラタイガーマスクの突然の引退(同年8月)に焦った新日フロントが急いで海外遠征中のジョージを引き戻してやらせたものですが、それは全くの準備不足でなんのアテもないキャスティングでした。結局タイガーマスクに比べるとパッとせず、マスクを脱いだ後のジョージも、せっかくヘビー級に昇格したのにパッとしなかったせいで与えられた仕事は外人レスラーのやられ役というパッとしない日々を送っていました。

 

 パッとしないザ・コブラもパッとしないジョージ高野も少年時代の僕は直撃世代でしたが、そんなジョージ高野はどこまでもマイペースだ!と思わせる、インタビューでの魅力的な発言をここから拾ってみました。

「(コブラ時代を振り返って)あの時代の事は、まだノーコメントにしてほしい。自分なりに悩んだこともあったしね。それにコブラはまだ消えてはいないんだよ。どこかにいるんだ。コブラに夢を持ってくれたファンもいるんだし、僕はそう思っているんだ。」

「(初戦のトリプルタッグを振り返って)あれは仕方なかったよ。ヘビー級の前座みたいなものだったから。(対戦相手の外人レスラー達を指して)あんな恐竜みたいな連中に、勝てるわけがなかったんだ。」

「(後から凱旋帰国してきた経験年数2年ちょいの武藤敬司が、ジョージの立ち位置をあっさりと抜いていったことについて)別に焦りとかはなかった。チャンスが来るまでは、いいと思ってたからね。そういうのは気にすると、人間、進歩がなくなってしまうんだよ。いくら周りがワイワイ騒いでいたって、それはフラッシュしていくだけだったね。」

「(前田やスーパーストロングマシンがタッグで参戦し、代わりにリーグ戦のメンバーから外されてしまった時)無理をしたって、仕方ないんだよ。それに自分には目標があったからね。体重を120キロまで持っていくと言う。それまではしょうがないじゃないか。実力もないのに出て行っても、やられるだけだよ。」

 

 しかし神はクリスチャンのジョージを見捨てはしませんでした。新日本プロレスアントニオ猪木の思いつきプロデュースにより無茶苦茶に振り回されている中で、誰にも気づかれることなく黙々と自分の定めた目標を見つめながら試合をこなしてきたジョージは着実に力をつけていきたのです。そして会場では猪木の仕掛けにうんざりしていたファンが努力をし続けたジョージを称え、そのファンによるジョージコールが次第に大きく聞かれるようになりました。

「自然に成長していったんだね。何かきっかけがあったとかではなくてね、蛇が脱皮していくみたいに、あんまりかわんないけど、ちっちゃな変化があらゆるところを変えて見せたのかもしれないなぁ。体重の1キロが、とんでもないパワーにつながることだってあるんだよ。」

 こんな細やかなコメントは猪木や長州力にはできないでしょう。レスラーらしからぬ、もはや職人のコメントですが、でも僕はグッときました。大きいことを口にせずにじっと耐えるからこそ、ジョージは小さな変化に気付くことができるのだろう思います。

 

少しだけだが、新日本プロレスのリングが見慣れた光景から動いた。僕はそう感じられた。

 

 1989年、スーパーストロングマシンとタッグを組んだジョージは、長州とマサ斉藤組にIWGPタッグのベルトを掛けて挑みました。そしてジョージらしからぬ流血混じりの体で場外乱闘した末、ジョージ1人が必死で這ってリングに戻ってギリギリのテンカウントで泥臭く勝利を収めたのです。入団13年目にして、これが初タイトルになりました。

 少しの変化を長く長く積み重ねてきたジョージの努力は、結局は新日本プロレス、いや猪木劇場に対して少しの爪痕しか残すことができませんでしたが、でも少しの人だけですが彼の努力に気付いてくれました。それでいいじゃないか。そこがいいんじゃない!