Keep on Scrappin' 〜名言のスクラップ帳〜

僕のスクラップブック から、グッとくる名言を脱線話を交えてお届けします。

未来の不確実性を受け入れよう

私はレッスンを始める前に「この子にどう対応するかは、わからない」という心構えを持つようにしています。

 

今回ご紹介する名言は、アナット・バニエル著、伊藤夏子・瀬戸典子訳「限界を超える子供たち」(太郎次郎社エディタス、2018年)からです。

 

 著者のアナット・バニエルはイスラエル出身の身体運動の研究家で臨床心理士でもあり、スペシャルニーズな(特別な支援が必要な)子供たちに対して本人の眠っている能力を引き出すためのレッスンをアメリカに拠点を置いて実践しています。アナット・バニエルは世界3大ボディーワーク※の一つであるフェルデンクライスメソッド創始者モーセ・フェルデンクライス(1904-1984)に師事し、脳性麻痺児や発達障害を持つスペシャルニーズの子供たちとの30年以上に渡るレッスン(療育)を通して、脳の可塑性を利用して能力を引き出す手法(アナット・バニエル・メソッド)を確立しました。日本語訳された著書は他に「動きが脳を変える」(太郎次郎社エディタス、2018年、原題は「Move Into Life」で2009年出版)があります。

※ボディーワーク:運動によりカラダに気づきを与え、「からだ」と「こころ」を変化させる方法のこと。

 

 本書のバックグランドとなっているフェルデンクライスメソッドとは、1940年代に工学博士であるモーシェ・フェルデンクライスが自身の膝の障害※を克服するために開発した「動きを通しての気付き」と「機能の統合」というレッスン方法によって構成されるソマティック・エデュケーション※であり、その後は現在に至るまでリハビリテーション、介護予防、ヘルスケアだけでなく、スポーツ選手やバレリーナや楽器演奏家の技術向上のために活用されてきました。フェルデンクライスメソッドにおける「動きを通しての気付き」とは、指導者の指示を聞くことによって引き出される生徒の自発的で自然に出てくる動きを重視し、身体感覚の変化に対する「気づき」を積み重ねるグループレッスンのことです。一方で「機能の統合」とは指導者が生徒の身体に柔らかく触れながら、動きを案内していく個人レッスンです。著者は本書で症例と具体的なアプローチを紹介しながら、子供が自分の動きの質や動きにより生まれた差異に気づくことが重要で、そのためには「こうすべき」とか「直す(治す)」という周囲の人が子どもに向ける過剰な力(圧)を抜くことが必要と言い、むしろ親や支援者の変化の方がより重要であると随所で強調しています。

※  長年親しんできた柔道により痛めたものと思われる。本人は黒帯の持ち主。

※ソマティック・エデュケーション:「こころ」と「からだ」を一体として扱う教育のこと。

 

 今回ご紹介するグッときた名言は、第II部「9つの大事なこと」の「二つ目の大事なことーゆっくり」という章から引用しました。この章のタイトル「ゆっくり」とは子どもの体の動き、目や手の動き、おしゃべりそして考えることなどを「ゆっくり」にすることを意味しています。そして「ゆっくり」は識別力を高めるチャンスを増やし、脳が得たものを統合して新しい能力を生み出すことを助けてくれると著者は言います。私たちは脳に神経回路が出来上がってこそ少しずつ速く運動したり行動したりすることが出来るので、脳が新しい動きに必要な神経回路を築くまでは、つまり何かを新しく学んだり、発見したり、理解しようとする過程では、「速くしないこと」が肝心です。発達障害を持つ子どもに欠けているのは訓練による刺激だと思われがちですが、本当に必要な事は刺激を減らし、脳が「ゆっくり」を体験し、起こっていることを感じ、それに気づく事なのです。

 

私はレッスンを始める前に「この子にどう対応するかは、わかない」という心構えを持つようにしています。

 

 ここでは著者は、重度の脳性麻痺による筋肉の緊張で固まっているため腕も脚も動かず、発語もなく、目でものを追う以外の動きが自発的には出ないという1歳10ヶ月の女の子に初めて接したことについて紹介しましています。このような子どもにレッスンをするのは初めての経験でしたが、著者はまずこの子に「私」という存在に慣れてもらうことから始めました。その時の心構えを表したのが上記のグッときた名言になります。著者がこの子の足に触れた時、か細い脚の筋肉が驚くほど硬くなり、さらに動かしにくく感じました。まず著者はこの子の脚をやさしく持ち、そばから見たら動いているのかどうか分からない程にゆっくり動かすことをします。「ゆっくり」の動きを続けている間、子どもは動いている感覚に注意を向けている様子でしたが、すると突然足の筋肉が緩み、クロス状に閉じた脚が横に開き、足首までもが動き出しました。

 

 著者はただ「ゆっくり」動かす(もしくは動く)こと以外は、この子にどう対応するかは準備せず、「未来の結果はこうなるはずだ」と決めつけずに立ち向かった結果、子どもの反応を引き出すことができました。著者は「刺激量を減らすことが発達や学習にとって重要である」と繰り返し言っていますが、それに加えて、「あらかじめ方法を準備しない」ことにより、支援する側が自分の動きによって起きている現象(もしくは現状)を素直に受け入れることができ、ゆっくりとした動きの中でお互いに「気付き」が高まっていくという相互作用についてを自身の経験をもとに伝えています。

 

 2022年1月30日の東京新聞web版の書評欄の中で、時事芸人でおなじみのプチ鹿島氏は「偶然や運に目を向けることで我々の意識は他者へと開かれる」と書いています。プチ鹿島氏の言葉を借りると、不確実な「未来の結果」は偶然や運に支配されているので決めつけてもしょうがないということもできます。偶然や運に支配されたものを「思い通り」に実現させるためには相当な物理的・心理的なエネルギーが必要です。そう考えると私たちにとって目の前のことに常に気を配りつつも不確実な未来を想定して準備するということは、相当に刺激の強い緊張状態であると思われます。そしてそれは「力み」をうみ、「気付き」を失うことにつながるでしょう。未来を決めつけない、つまり「未来は運任せ」という心構えを持つことがコミュニケーションの対象者に与える刺激量(圧や緊張)を抑え、さらに他者への共感の扉が開くための手段なのです。「未来は運任せ」という態度は「こころ」と「からだ」をつなぐだけでなく、「あなた」と「わたし」をつなげる魔法の教えなのです。